No.5 SPLA-UNITED/統合スーダン人民解放軍
素材となった写真:
1993年10月19日南スーダン、ジョングレイ州、アヨドにて撮影
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作品の説明
1993年10月、取材のため、依然北のイスラム・アラブ政府軍、さらにSPLA主流との戦いが続くアヨドを訪ねた、治安上の理由のため外国人は日帰りしか許されなかった、2回目は司令官-cdr/Elija.Hon.Top-の特別の許可を得て1泊だけ許された、この画は1回目日帰りの時の様子である、正面で座っているのが司令官のエリジャだ、牧畜民ヌエル族の一大根拠地であるアヨドの周辺には広大な草原が広がっているが、司令部のあるアヨド村は大きな森に囲まれていた、この大きなテーブルの前でわたしはエリジャにインタビューをした、彼の周りにはSPLA-UNITED・AYODの幹部たちが集まりわたしと司令官の話を聞いていた、エリジャは〝遠い日本からここまで来てくれる日本のジャーナリストには心から感謝しなければならない〟、そんなことをまわりの部下たちに話していた、ゲリラ司令官としてかなりの知的レベルの高さを感じた。
<後日談>
(1) 2回目の訪問の時、エリジャはよほどわたしのアヨド訪問がうれしかった?のか、その夜小さな小屋に泊まっているわたしに部下の兵士によって3キロ近い半焼の牛の肉塊が届けられた、すでにベッドに入りうとうとしていたわたしは驚いた、と同時に感激した、だが残念なことに3キロも食べれるわけがない、二切れ、三切れと食べた後、兵士にみんなで食べるよう持って帰ってもらった、翌早朝わたしは大きな掛け声で目を覚ました、まわりの森では1000人近い男たちが行進、軍事訓練に文字通り汗を流していた。
(2) エリジャとはその後、ナイロビの小さなホテルで再会した、さすがに苛酷な環境下での長年にわたる戦いの疲労は隠せなかった、エリジャはわたしに息子の教育のことについて相談した、〝息子にはもっとまともな教育を受けさせたい、日本ではどうだろう・・・〟、わたしは金のかあることなので現実的には難しいが、考えてみると約束した、その後、2005年の包括平和条約の締結までスーダンの戦いは12年間にわたって続いた、わたしもその後何度か現地を取材した、ただアヨドには行く機会がなかった、ある時、いつどこでかは覚えていないが、エリジャが亡くなったことを知った、それは戦いではなく体調を崩して病に斃れたという噂だった。
*今なおアヨドへのアクセスは困難だが、当時はたまに飛ぶ国連関係の小型機で飛んだ。
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大津司郎プロフィール